湊谷夢吉の生家・みなとや食堂に行ってきたよ!

いざ、みなとや食堂へ
前回は僕が湊谷夢吉作品に出会ったときのことを書きました。
今回は、いよいよ、湊谷夢吉の生家の食堂にお邪魔したときのご報告です。(ちなみに、訪問は昨年の 9 月 8 日になります。なかなか時間が作れず今まで記事にできませんでした。)
湊谷夢吉の生家が食堂を経営していて現在も営業している、このことを教えてくれたのは、山崎幹夫氏になります。2011年の暮れに伺った際にこうやって京都の食堂を検索すれば出てくるよ、と丁寧に教えてくださいました。
それからようやくの訪問です。
その日は、土曜日でしたので電話をして営業を確認しました。
以上をググっているときには、すでに閉店している、という情報を見ていたので若干不安がありました。
そういえば、京都の個展の時に友人から、「この前、あの通りを歩いてたら、湊谷食堂がなくなっていた」と聞いた。湊谷夢吉さん(1988年に他界)の実家の「湊谷食堂」である。
最寄り駅・北大路駅
さて、最寄り駅の北大路駅に降り立ちました。向かいに見える大谷大学の学生さんはみなとや食堂をよく利用するそうです。
そんなお話を聞かせてくれたのは、みなとや食堂のご主人さん。湊谷夢吉の実兄です。写真で知る湊谷夢吉に似て彫りの深いダンディーさんです。
『みなとや食堂』の外観
駅から 200m ほどに位置する『みなとや食堂』の外観。
このときはご主人のご好意で、湊谷夢吉のお話をいろいろ伺うことができました。
箇条書きで一部をご紹介しますと、、、
- 幼稚園のときバイオリンの習い事をしていた。
- 小学校のときは手塚治虫が好きで真似をして描いていた。手塚治虫に会いに行くと言って一人で電車に乗ったことがある。
- プラモデルを良く作っていた。糸で天井から吊って展示していた。
- 高校卒業後、地元のデザイン会社に就職する。その後、フォークソングの全国巡業をしつつ、たまに帰省してはアルバイトで旅費を作っていた。このときには遺体の管理をする、という割のいいアルバイトも経験している。
- 北海道時代には、行政のポスターを何点か描いている。湊谷雪子夫人が公募案件を見つけてきたそうだ。
- ゲームカセット・箱のデザインをしたこともあるが、ゲームが販売されたかは分からないそうだ。
- 常に手元では絵を描いていた。何かをしながらも描いていた。
- 正月に帰省しても漫画の原稿を描いている時があった。とにかくハードワークをしていたのが、急逝の原因ではないか。
- ガロ '97年 6 月号には偶然にも息子の湊谷夏さんとともにそれぞれ別々の記事で掲載される。『続・名作劇場③』には、湊谷雪子夫人へのインタビューに続いて『惜夏記』(夜行・1978年)を掲載。『TOJIMA劇場』に妄想名簿作家という肩書きで湊谷夏さんの名簿作品が紹介されている。
4か月前の走り書きのメモを記憶を頼りに起こしましたので、間違いがあると思います。
またご主人にお借りして読んだガロの夢子夫人へのインタビューの内容と記憶が混ざってしまっている点もあると思います。
中の様子
レトロなつくりと内装。湊谷作品の 1 シーンを再現したようです。
ステンドグラスの飾りシールのついた窓や柱に貼られたタイルがおもしろい。よく似たスレンドグラスの飾りは、小学校のときに通っていた親戚のおばちゃんのうちにもあったもので懐かしい感じがします。
出身校へ
定食をテイクアウトにしてもらい、徒歩で 20 ~ 30 分になる、湊谷夢吉の母校・京都府立紫野高等学校に向う。
途中にあるお地蔵様は作品からとび出てきたように妖しげだ。
校舎は緩い傾斜を上った先にあった。周囲は林になっている。すでに陽は落ちかけていて心細い。
『ライプニッツの罠』(1986・漫画ゴラク)のハイテクベンチャー社長・尾友の鞍馬山の研究施設を思い出した。しかし Google マップの航空地図で見るとまだまだ街中なのです。
この帰りには、レトロ趣味があるのならとご主人に勧められて、銭湯を改装した喫茶店にも寄ってきました。見事な空間でため息が出ました。
ではでは~

1 コメント \(^o^)/
いいルポでした。
みなとや さんの アカシヤの大連をよんだばかり。
すでに 書物も手に入れにくくなりました。
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